他人にどう見られるかということ

この世に生を受け四十数年。それは私にとっては「他人との関わりにおける四十数年」ということだと解釈する。

それは、決して友達が多いだとか、周りに自分を支えてくれる人が多いだとかという意味ではない。むしろ平均よりも少ない方であろう。私にとっては「他人にどう見られるかを考え続けてきた四十数年」ということである。

四十数年後など想像もできなかった、あの幼き頃から自分の思考回路は変わらない。「これって、他人はどう見るだろう」「他人に嫌われないためにはどうすればよいだろうか」ということをまず考えるのである。

それが悪いわけではない、他人にとっては。幼き頃から私は常に「優しい人」であったし、教師など人生における先達からもある程度よい評価を得てきた。また社会に出てからも上司、先輩からは「仕事のものわかりが早いやつ」「段取り上手」という評価を得ることもあった。

ただし、そこまでなのである。周りに合わせることだけに長けていても、他人は動かせない。何者かにはなれない。

何が足りないのであろうか、意思であろう。自分は何をやりたいのかという思考や行動における幹がない限り、それは風を受け靡くだけの柳の葉にしかなり得ない。

それは「便利なやつ」「都合がいいやつ」、よくて「使えるやつ」ではあっても、自分の足で立ち上がれるやつにはなり得ない。

では、どうすればよいのか。その種のメンタルヘルス系啓発本は書店に溢れている。代表的なものが「嫌われる勇気」。自分が何をやりたいのかを見定めることが、自分を認めることになる。その結果、相対的に他人に合わせることの必要性が低下する。「自分を認め、他人に嫌われてもよいと思える勇気」ということであろうか。

四十数年は、現在の平均寿命になぞらえると折り返し地点。今までの「他人にどう見られるか」を常に考えてきた自分の思考の量を積み上げたとしたら、それを下から読み上げていくだけで吐き気を催す。

「他人にどう見られるかを気にすることが、結果一体何に繋がったのであろうか」それを振り返ると、後悔しかない。「ああすればよかった」「何でやらなかったんだろう」他人にどう見られるかを考えた末の結論は常に様子見や無為無策であろう。自分よりも優先し、ある種「尊重」した「他人」は今何をやっているかどこにいるかもわからない完全なる「他人」となった。自分のことなんてもう忘れてしまっているに違いない。そんな他人のために選択した様子見や無為無策のせいで、いったいどれだけの本来自分が持つべきだった望みを犠牲にしたであろう。

そんな思いを抱いた四十数歳の男が人生を折り返し地点から匿名で思いを記したい。四十数年間「他人にどう見られるか」を優先した思考回路は急に変えることはできない。まずはこのブログに、他人を慮ることなく自分のやりたいことや自分が思っていることを表現してみよう。それができれば、いつかきっと自分を変えられる、そう思うのである。