その日のまえに

重松清、文春文庫発行。

重松氏の作品にはよく見られる、命や家族の大切さを考えさせる作品集。

出てくる人達がみんな優しくて、悲しくて、せつない話。

普段何気なく接して、ウザったいな、と思ってしまう母親とか奥さんとかがもう死んでしまうとなった場合に、どんな気持ちになるのか。その日が自分に近づいてきたときに、狼狽えず冷静に対処できるのか、不安が膨らんでくる。でもそれは誰にもいつかは訪れる。避けがたいその日。

余命を告げられた人、その周辺の人たちの5編のストーリー。それが、最後の1編の家族のストーリーで、伏線を回収するように、すれ違い、少し触れあう。

あまたの人達が悲しみに打ちひしがれて、しかしそんな思いを胸に秘めて1日を生きている。だから自分も懸命に生きなければいけない。そんな気持ちにさせてくれる話である。

調子に乗って思い上がったり、何かに怒りを覚えたときに読み返して、改めて自分の生活を確かなものにする。1日を大切に生きる。そんな1冊であると思う。

ブログ記事のup

ブログをupすることを日課として1か月。またそれを休んで1か月ほど経った。

ほぼ1か月ぶりのブログ記事である。

誰に頼まれたわけでもなく、毎営業日upし続けたものであるから、誰かに読まれるわけでもないし、このまま終わりにしても何も問題ないのだけど、ブログを日課としていた時の方が、毎日にハリがあるというか、丁寧に生きているような気持ちを持てた。

特記事項無しの1年の中のなんとなく起きて飯食って、セルフして寝た1日でなくて、何かを考え文章をまとめて公開する、ということは、その1日に意味を持たせることになる。

無為な1か月と、20個の文章が記録された1か月は、あまりにも違う。毎営業日必ず行う必要はないが、続けることとする。

 

東京医大の男女比の問題について

東京医大の入試において、女子には男子よりも合格のために高い得点が必要であった、ということがニュースになった。

自らを振り返ってみて、30数年前の地方公立高校の入試においては、あからさまに合格に必要な偏差値が男子よりも女子が高かったことを思い出した。

進学校であったが、当時はそれが当たり前で、さして苦情が出るような感じでもなかった。おのずと合格者における男女比率も男子の方が多かった。近くに公立の女子高があり、逆に公立の男子校はないという状況も背景にあったのかもしれない。

現在、同校の偏差値をネットで確認したところ特に男女間で違いなし、また合格者の男女比も同程度とのことであった。ちなみに近くの女子高も共学になっているとのことであった。

これも時代の趨勢であり、公立高校等公共の組織団体においては、理由なく男女間で差をつけるということは、基本は無くなっている、ということなのであろう。

この問題でサンジャポにおける西川先生の発言が印象に残った。「外科医や整形外科など体力が必要な領域の医師を確保するため、男の医師が必要。」ということである。西川先生が女医であることから説得力のある意見であろう。

差別に反対する意見はもっともである。一方で将来のこの国を維持するために必要な人材を確保する、という問題について、例えば必要な医師や自衛官を確保するということ、またいかに出生率を上げるのかということに対して密接に関係する問題である場合に、必要な人材を確保する有効な施策を打ち出せていないにも関わらず、それに逆行する自由だけを認めてよいのかというジレンマがあるのだ。

杉田議員による「LGBTには生産性はない」は全くもって無神経で必要のない発言であったものの、本人の意図は将来を憂い、出生率を上げる必要がある、というものであったことを信じたい。

差別に反対し、自由を訴えることはもちろん重要だ。一方で、誰もがなりたいわけではないが国の維持のために必要な職業に従事する人材をどのように確保するのか、ということをきれいごと抜きに議論する必要がある時期が来ているのではないか。

世論を気にして不都合な真実を表に出さないという政治の手法を改める必要がある。

会社でお菓子を配ることについて

会社でお菓子を配ることが苦手である。

異動や退職でその職場を離れる際に、また休暇明けなどにそんな機会が訪れる。

しかしながら、これは職場の慣習に依るところであり、庶務の人に預けたり、決まった場所に箱を置くだけでよいというところもあるであろう。

残念ながら私の今の職場は、そのようなシステムで確立しておらず、自分で配る必要がある。

まだ親しい人であればよい。職場で同じ空気を吸っているものの、普段ほとんど話したことが無い人というのがいるもので、そのような人にお菓子を持っていくという行為がとても苦痛なのである。

自分がもらう立場になることを考えてみれば、お菓子を配っている人に対して、感謝こそすれ、ウザいと思うことなんてないのに、なんでこんなに苦痛なのであろうか?

要はコミュ障であり、人と話すことが苦痛ということなのである。

それであれば、お菓子を配らないヤツとしてキャラを確立すればよいのだが、そう開き直ることもできないところがコミュ障たる所以である。

お菓子配りは、コミュニケーションのリハビリ、人間関係構築のスモールスタートとして絶好の機会だ。無心で自分の周りの二十人、「おみやげです」と一言添えて無心でお菓子を配ってみようと思う。

それだけのことだけども、それさえも躊躇している自分にしては、大きな一歩となるに違いない。

賢者タイム

射精後、エロい気持ちが急速に無くなり落ち着くこと。この時間を「賢者タイム」というそうである。

例えば風俗行きたいなー、だけど金無いしなーなんて迷っている時にセルフで一発抜けば、そんな気が一瞬にして収まり、ジョギングでもいくかなんて気持ちになるのである。まさにお金と時間の節約。

また、セルフで最高の一発を、なんて理想の作品を求め、深夜AVや動画のサイトを彷徨い歩いてしまうが、時間がもったいない。とりあえず、どれでもいいから一発抜けば、早く寝よ寝よなんて気持ちになるのである。

いきものの不思議。気分が身体の状態とリンクしていることがよくわかる。

 

逆に射精前のエロエロな気分な時間を「イキりタイム」と仮に名づけることにする。

もし人間の気分が「イキりタイム」「賢者タイム」のどちらかでしかないとしたら、どちらがよいのであろうか。「イキりタイム」が続く人は、常にエロいことを考え続ける。きっと無防備でエロのために危険の場面にも直面するであろう。「賢者タイム」の人は常に冷静であり、エロよりも、より生産的な活動、例えば仕事とかに打ち込めるであろう。また人にも優しくできるであろうから、逆にモテるかもしれない。

「据え膳食わぬは男の恥」なんていうが、ドラマなんかでも見る格好いい男で、女から誘われても断っちゃう奴は、本当に実在するのであろうか?そいつは常に「賢者タイム」を維持しているのか?エロの優先順位が低いのか?

 

性欲は本能でありながら、食や睡眠などと比較してかなり社会的、経済的な制約を受けるものである(特にマッチアップについては)。

基本的には、性の開放を望んでいるわけであるが、エロより楽しいことがあり、それに夢中になれるという生き方も羨ましい。科学の進歩により「イキりタイム」「賢者タイム」のコントロールが可能となることもまた望ましいことである。

ただし、その薬?は、原則「イキりタイム」を「賢者タイム」にシフトするために使用することにしないと危険である。逆に「賢者タイム」を「イキりタイム」にするために使用されると街中に危ない人が溢れてしまう。「賢者タイム」を「イキりタイム」にシフトするために使用できる人はAV男優など、エロが仕事になっている人か妊活中の方などにのみ許可する仕組みが必要となるであろう。

田舎はいい

とてつもなく田舎でなくとも構わない。いや、田舎が過ぎると、自然の厳しさが身に染みる。都会から適度の距離、車で2,3時間がよい。

マンションではなくて車が2台駐められて、物干し竿があり、木が植えられている庭がある一戸建。日中はやはり暑いが、朝晩は気持ちがよい風が吹く。庭かプランターでトマトやキュウリでも育てれれば、日当たりが良いからスクスク育ち食卓に並ぶ。

都会と比べると人口密度が低いから、外に出てもあまり人と会うことが無い。田舎はコミュニティにおける人の繋がりが強いが、無理して参加する必要はない。周りに人がいないと、孤独が当たり前になる。むしろ孤独感が減る。

多くの地方自治体が移住を呼びかけるが、普通のサラリーマンにとってはハードルが高い。その地においても都会での仕事と同程度の収入を維持することが難しいからだ。

できれば仕事を辞めずに地方に移住が出来るとよい。現在のテレワーク環境で十分可能な職種もあるのではないだろうか。メール、電話、テレビ会議、あとパソコンの画面共有により、会議含め仕事に必要なコミュニケーションはカバーされる。都会を本拠地としている企業が、出勤を不要とする勤務体系を許容、推進する流れが出来ることを望む。

ある人は老親の近くへ、ある人は故郷とは違う新天地へ。都会に一極集中している人口分布を分散させ、かつ田舎では逆に居住地を整理集中させていく。地方自治体、企業、従業員のニーズを一致させることが重要だ。若者に将来を悲観させるのではなく、田舎での生活に希望を見出せること、それが高齢化が進む日本でのソリューションなのであろう。