プールでウォーキングする人生

40歳を過ぎると、人生80年として折り返したなとか、あと何回親と会えるんだろうなとか考え始める。

今まで、おじさんvs若者の図式でいうと若者チームに所属していたつもりであっても、否が応でもおじさんチームに所属せざるを得なくなる。

ただまだ折り返し地点、残りの人生悔いなく生きていくにはどうすればよいのかと考える。しかし残念ながら答えがでないのである。

今までの40年間を思い返してみると、後悔ばかりなのである。ほぼ唯一といえるモテキに、何故かカッコつけて、その気がない振りをしてみたり。将来のことを真剣に考えず、無理しない範囲で入れる大学を選んでみたり。人生で最も自由な時間を抱えていたであろう大学時代に、何もせずに深夜のテレビばかり見て過ごしてみたり。仕事についても本当に自分のやりたいことを考えたであろうか。

そんな後悔ばかりの半生を抱えているのに、今後うまくいって同じくらいの時間を過ごしたとして、80歳くらいになって「人生悔いなし」とか思える自信が全くないのである。

そう考えると生きるのが辛い。だから考え方を変えようと思う。

人生は、自分が成し遂げた成果を積み上げることであろうか。いや、ただその日を生きて、その日を繰り返している中で、死を迎えるものだと捉えるのだ。

前者は、山登りやマラソンに例えられるであろう。山登りで何メートルの高さまで登ったか、マラソンで何キロ走り切ったのか、そのように成果を確認してしまうとどうしても他人と比べるし、もう少しできたのにという後悔も感じてしまうのではないだろうか?たとえ比較的成果を残した人生であったとしても。そうなるときりがないのである。

後者は、25メートルプールでのウォーキングである。ひたすら同じコースを繰り返し歩く。25メートルで折り返し、また歩く。誰かとスピードを競うわけでもない。混んできたり、前の人との差がつまったら途中で折り返してもいい。自分が心地いいように歩くのだ。何往復したかもすぐ忘れてしまう。そして、昨日と同じコースを今日も同じように歩いていて、いつか死ぬ。

成果なんてそもそも無い。誰かと比べることもない。ただひたすら歩くのである。

人生良いことがあったり悪いことがあったりする。しかし、いつまでも続くものではない。いつか逆の立場に置かれる。毀誉褒貶の中で一喜一憂しなくて済む。ただ今日も昨日と同じコースを歩いているだけなのだから。

そんなことをプールでウォーキングしながら考えた。しかしながら、たまに自分のペースに固執して、前の人を追い抜いたり、文句を言ったりするおじさんがいる。プールでウォーキングする人生であってもそんな人は現れる。そんな人のことは、いちいち気にしないことが肝要である。

 

立ち上がれ岡田、もう一度

2018年7月21日、ZOZOマリンスタジアムでのロッテvsオリックス戦。

それは、7回裏の出来事であった。ロッテの攻撃、0対1のビハインドで、8番田村が2点タイムリーヒットで逆転の2対1、9番鈴木がライト前ヒットで続き1アウト1,3塁という絶好の追加点のチャンスである。

打席は1番ルーキーの藤岡、ここで井口監督は1塁走者鈴木に代わり代走岡田を送り出した。貪欲にさらなる追加点を狙いにいくとともに、鈴木が守るサードには、内野手でありながら外野で出場している平沢を回し、外野にそのまま岡田を入れることができる。まさに足と守備のスペシャリストを有効に活用できる局面であった。

藤岡はど真ん中のストレートを打ち返すも、大きなセンターフライ。足が早くない田村であったも犠牲フライには充分であった。

しかしである。田村とともに何故か1塁の岡田もタッチアップ・スタート。五輪種目パシュートのようにダイヤモンドの対角線上に走り出したのである。もちろん田村は悠々とホームインしたのであるが、センター大城からの返球は途中の二塁ベースでカットされ岡田がタッチアウトとなったのである。

一瞬球場の時が止まった。タッチアウト後、淡々とベンチに戻る岡田を除いて。

テレビ中継においても、1点は認められる、認められないと何度か言い直す混乱が見られ、ピッチ上も井口監督が審判に詰め寄るものの、田村のホームインよりも岡田のタッチアウトが早かったというアナウンスがあり、7回裏の攻撃終了。

あと2回、ロッテは先発ボルシンガーは神がかりの10連勝中、今日も11連勝をかけての好投であった。しかし抑えの投手陣に不安があった。クローザーの内は前日の同オリックスとの試合、9回登板時に打ち込まれ失点、同点となり、延長。結果としてサヨナラで勝ち投手になったものの、2イニング42球を投げていた。その前の試合7月18日の楽天戦では、内の前を任されている益田が四死球で自滅、負け投手になっている。

ロッテにとっては、是が非でも欲しい1点を、岡田の暴走により自ら返上する格好になってしまったのだ。

岡田は8回からそのまま外野守備に入り、ボルシンガーが8回、益田が9回を抑え、2対1で逃げ切り、チームはカード2連勝を果たした。喜ぶチームの面々をよそに岡田はベンチに戻ると大塚外野守備・走塁コーチと暫く話をした後、道具を持って足早にベンチ裏に引き揚げていった。

 岡田はどうしてしまったのだろう。開幕から一軍ベンチ入りし、主に代走、守備固めとして起用されているものの、打撃についてはその時点で10打席7打数無安打。しかも前年は44打席33打数無安打に終わっている。3年越しのNPBの連続無安打記録を更新、継続中なのだ。

それなのに、自分の存在理由であるはずの走塁での大チョンボ。明くる日私が巡回したマリーンズ関係のブログでは、コメント欄含め、岡田はもう終わった、怒りを通り越して憐みのレベルという論調が大勢を占めた。

しかし次の日も岡田は同じようにベンチ入りし8回から外野の守備固めに入った。かつては選手会長も務め、新任の井口監督とも現役時代から苦楽を共にしていることから、よほど信頼を勝ち得ているのであろうか。しかしながら、今のような使われ方で一軍に置いておいてもチームを活性化することはないであろうし、1本安打がでるのも覚束ないのではないだろうか。

岡田よ、我々は知っている。君が腐りながらベンチに座っている選手ではないことを。

我々は今も鮮明に覚えている。

既婚で2人の子持ち、足利ガスの正社員の座を蹴って栃木から2008年ドラフト育成選手として入団を決断した覚悟を。

支配下登録されたものの1年目は二軍で過ごし、シーズン後のファン感謝デーの紅白戦というお遊びにおいてもベンチから外野守備に就くために全力で走る背番号66を。全く無名ながら、他の選手とは異次元の体のキレとスピードを見せつけていた。悪く言えばイキった奴だと思った。

2010年、荻野、早坂がケガで斃れた後に掴んだチャンス、いきなりの日本シリーズでの3塁打でヒーローになった際ファンの前で披露したバク転を。

2011年、東京ドームで巨人ファンを絶望の淵に沈めた3連続ファインプレーを。

2000打席以上の本塁打なしの記録は、不名誉なものではなく、むしろ誇らしいものであった。俊足ながらバットを振り切り、内野の頭を超す強い打球を放つことが持ち味なのだ。

これだけ無安打が続けば、精神的なダメージやプレッシャーも相当であろう。焦りが無謀な走塁に繋がったという意見もある。

現在の状態や一軍ベンチにおける存在意義は本人や監督、コーチにしかわからないのものではあるが、ここは1回静かな環境で走り込み、またとことんまで打ち込み、自分を見つめ直す時間を持った方がよいのではないだろうか。

岡田よ、君はこんなところで終わる選手ではない。散々奇跡を見せつけてきたではないか。連続無安打により、ある意味舞台は整った。守備と走塁の便利屋は一旦他の選手に任せ、今そこにある新たな奇跡のための準備に選手生命を賭けて取り組んでほしい。

 

メッセージ

f:id:suncba:20180718123505j:plain

 

 これは、とある公共施設のトイレ個室内の壁に貼付されていたものである。

しかしながら、用を済ませる時に事前に不足に気がつくことはできるのであろうか?緊急時は無理であろう。ではトイレ個室にて用を済ました後ペーパーの不足を発見した人が総合受付の係員に申し出ることができるのであろうか。残念ながら、総合受付はトイレ内に設置されているわけではない。正面玄関に設置されている。用を済ました後不足を発見した人は、ブツが付かないように浅めにパンツとズボンをはいて、不自然な姿勢で正面玄関・総合受付まで歩いていけというのであろうか。また仮にペーパーを入手できたとしても、万が一その間に個室を他の人に占有されてしまったら、悲劇はさらに拡大するのだ。

であるから、「不足の際は」ではなく、「不足が予見される際は」が正しい表現であるものと考える。

しかしながら、後に続く人のためにペーパーの補充を進言する殊勝な人は少ないであろうから、貼り紙内に総合受付の電話番号を記載することがベストソリューションであると考える。

AIがもたらす未来

AIがさらに進歩、普及した将来の世の中に対する悲観論がある。「AIが仕事を奪う」というものだ。

例えば一業種、一会社、一部署という単位において、AIを導入するという話であれば、それは確実に人が行っていた作業をAIが行うことになるから、その業種、会社、部署においては、その仕事は確実に奪われることになる。

例えば、金融機関における与信審査の仕事をAIで行うとする。今まで与信審査を行っていた人の仕事が無くなるわけだ。しかし、それであれば、今まであらゆる業種で進められてきた機械による作業の自動化と同じではないか?

作業の自動化という段階であれば、人間の仕事は無くならない。その機械をお守りしたり、結果をチェックする仕事が必要であるからだ。この段階においては、まだ機械は人間の管理下に置かれている。

AIが単なる作業の自動化と違うのは、人が経験により蓄積したさらに複雑なノウハウやウェットな人間関係などをもとに判断を要する作業、つまり今まで機械により代替できないと考えられた分野においても機械が進出してきているということなのだ。これは将来、人の仕事の概念を覆すようなポテンシャルパワーを持つものだ。

AIがもたらすかもしれない未来に至るプロセスを整理する。

  • AIが活躍する社会になるためには、あらゆる情報がデジタル化され、蓄積、共有される必要がある。購買、交通機関を利用した移動、銀行口座などの履歴情報、インターネットにおける検索履歴、個人の健康、医療の情報など。
  • 加えて、これら様々な分野の情報はID連携により、特定の個人の属性として識別される必要がある。
  • 個人の属性として自らの個人情報、活動履歴を提供することに抵抗を覚える人が多いことであろう。そのため、情報を提供する人に対してのベネフィットを明確に示す必要がある。情報を提供する見返りに商品購入において一定の割引が適用されたり、優遇されたりするなど。ベネフィットは必要に迫られるレベルである必要がある。例えばスシローで休日夜2時間順番待ちすることに対して、アプリをインストールして予約し、順番が来たことが通知されたら行けばよい、そのくらいの「やるのが当たり前感」「やらない人情弱なの?感」が必要であろう。
  • 現在の若者は、子供のころからパソコン、タブレットスマートフォンを使いこなしている世代である。この世代にとっては、上記のベネフィットを得るために個人情報を提供することに対する抵抗感は、それより上の世代と比べれば確実に低い。そう考えれば、今後10-20年で考えれば社会にデジタル化される個人情報、活動履歴は世の中において無視できないカバレッジを有することになる。
  • ここまで述べた個人情報・活動履歴の情報が無視できないレベルで蓄積、共有されている、ということがAIが人の仕事の概念を変えるまでの存在に至るための前提条件となるであろう。
  • AIにより、無視できないカバレッジのデータが統計的に分析されることが、仕事の概念を変えることにつながる。例えば営業の仕事。今まではある特定の取引先に通いつめ、その担当者との関係を深め、趣味嗜好を知ることが、売上と利益の向上につながっていた。それはいわば競合他社との商品の差別化が難しく、何が良い商品なのかということが非常に曖昧であるからだ。それがデータにより完全に分析できるとしたら、商品の優劣をより明確に示すことができることができる。そうなると、商品の魅力というのは営業力ではなく、あくまで過去の商品の売上実績とその傾向のデータによる実証がより信頼できるということだ。
  • それは人間がその人の言葉で商品を売り込むことの価値が低下したことを意味する。そうなるといわゆる会社で幅を利かせていた「営業」という仕事をAIによるデータ分析が無価値化するということになる。
  • かつデータ分析の結果は人間が想定する理屈を超えてくるため、AIによる計算結果は、人間が検証できない。AIは人間の管理下に置かれず、人間の仕事を置き換えることとなる。

個人情報・活動履歴のデジタル化とAIによる分析により、今まで人間が行ってきた仕事の価値が無くなるとともに、仕事の概念が変わるというストーリーである。

ここまでデジタルデータとAIが普及して、さらにその先に、人間が行わなければならない作業量が減り生産性とともに給料も上がると楽観的に考えるのか、AIに仕事が奪われると悲観的に考えるのかという議論があるのだ。それほど近い将来ではない。

それは、AIによるベネフィットが、仕事を奪われた労働者層にまで届くのか、投資家・経営者、いわゆる富裕層に留まるのかという、まさに仕事の概念と社会の構造変化にまで言及する議論となる。AIのパワーは、資本主義社会の中でより強固なセーフティネットを構築できるのかどうかという議論については、現時点ではまだ空想の域を出ないものである。

まだまだAIの導入実績を積み重ねて、それによる変化を見定めてみないと、AIが人間に置き換わるのかはわからない段階であるから、あまり心配せず、AI導入に適応する努力をすることが肝要であると考える。

 

現時点でAIのポテンシャルパワーについて解説をしている書籍はないものかと探し「AI2045(日本経済新聞社)」を購入した。AIがもたらす未来についてヒントを得られたらまた投稿をしたい。

悲観と楽観

人間が生きていると、自分の認識が根底から覆される出来事がある。地震津波、洪水など自然災害に出くわした時。また、人間関係においても自分の想定を超えたひどい扱いを受けることががある。そのような経験は人の心を深く傷つけて、記憶の中に恐怖体験として刷り込まれる。経験をもとに防衛本能が機能し身を守ろうとする。

一方で、忘れること。それもまた人間が生きていくために必要な能力である。過去の辛かった出来事、悲惨な経験をいつまでも忘れられないでいたら、生きていくこと自体が苦行に過ぎるのであろう。

ビジネスにおいては、過去の失敗を忘れて再チャレンジを繰り返すことで収益の機会を常に探っていくことが必要だ。そのような第一線で活動する部隊とは別に、リスク管理部署が過去の失敗を教訓として蓄積し、ビジネス活動に危険はないかをチェックしている。つまり、相容れない二つの特性を、別の組織に割り当てることで両立しているわけだ。

では、一人の人間が、その二つの能力を両立することはできるのか?完全に両立できるのであればスーパーマンであろう。大抵の人はどちらかの特性をより強く持ちながらバランスを取りながら生きている。そこから、楽観、悲観という性格が生まれると言ってもよいだろう。

概ねこの世は楽観な人が生きやすいように出来ている。社会が成熟し、人間が生命を脅かされるようなリスクがそもそもかなり減っているわけで、いちいち気にしなくても何とかなるのである。

「悲観は気分、楽観は意志。」これは、悲観の特性を強く持った人が自分を奮い立たせ行動するために生み出した言葉なのだろう。悲観に引き込まれそうな自分を客観的に眺めて行動しても「何とかなる」ことを言いきかせているのだ。

意思により、自分をコントロールできる人はよい。理屈ではわかっていても、行動に移すことが出来ないと悩んでいる人も多いであろう、そうであれば行動に移すことが出来なくても「何とかなる」と考えることにする。「何とかなる」のレベルを一段下げるのだ。とにかく自分が生きやすいように解釈を変えること。それじゃダメ人間じゃないかって?大丈夫。ダメ人間ではないかと気になるような人は十分に真っ当であり、もっと「何とかなる」の恩恵を受けてよい人なのだ。

チームで認識を合わせること

世にある仕事は、自らの専門知識や技術を駆使して価値を生み出す仕事と、チームワークで協業して成果を上げる仕事にを大きく二つに分けられる、もしくはその組み合わせでできているのではないか。前者で利益を生み出す仕組みを構築し、後者でその仕組みを実行するというイメージが合っているか。

能力のある人間でも、自分ひとりで回せる仕事はこなせても、リーダーとしてチームを指揮して結果を出すことは苦手な人は多い。チームに参加する人にとってその仕事は所詮他人事であり、リーダーと同じ意識と熱量を持つとは限らないからだ。

日本の教育において、リーダーになるために必要な素養を身につけるための科目などはない。リーダーとしての素養は自分の意欲だったり他者とのコミュニケーションを通じて身につけていく、というのが一般的であろう。

チームとして仕事を進めていく上で、まず必要なことは、目的、期限、プロセスなどについての共通認識を持つことだ。リーダーからすると、当たり前のことであってこの作業が直接便益を生み出すわけではないため、できればメールなどにまとめて、メンバーに読んでおいてもらうというのが最も効率的なやり方であろう。しかしながら、このやり方ではほとんどの場合うまくいかない。英語で「Make sure to get everyone on the same page」という便利な言い方があるが、確実に全員の意識を合わせることはとても難しいのだ。

そのためにはまず、リーダーからのメッセージを極限まで簡単な表現にした上で、何度も繰り返しメンバーの意識に擦り込むことが必要となる。これをチームの基本方針としてメンバーが諳んじることができる合言葉のようになるまで刷り込むのである。ミーティング、メール、イベント等あらゆる局面で繰り返し強調するのだ。また言ってるよ、それしか能が無いのかねとメンバーから言われるようになったらしめたものである。

その上で、具体的な事項については、

  • 朝夕10分ミーティングを実施し、課題、進捗などを逐次共有する。よりクリティカルな業務においてはさらに小刻みに行うこともある。
  • メンバーが理解しているかについては、基本的なことから細かいことに至るまで、明示的に確認する。暗黙知はないものと心得る。

このような意識合わせのための基本的な作業を徹底することが必要となる。メンバーから煩わしいと思われないかと心配になるかもしれない。リーダーが熱意を持ってチームのために動いていれば、想いは通じる。逆にリーダーが自分を守るとか、メンバーに仕事を押し付けるという意識があったら、不思議なことにそれもわかってしまうから注意が必要だ。

ソープでの早漏対策

早漏あわてんぼうのサンタクロースがくれた贈り物。サンタさん、自分があわてんぼうだからって、僕まで慌てさせなくていいのに・・・

ソープなどでのマッチアップにおいて、早漏によるダメージは大きい。どの程度の早さかというと即尺でイってしまうのだ。その際に口内にて受け止めてくれる嬢であればいいのであるが、そのあたり不慣れで、あからさまに不信めいた顔になり、急いで口を離した上で、高速手コキにシフトしたりする。その時の気まずいこと。。。

また、さらに最悪なのが、即尺中はなんとか保っても、その後ゴムをハメてもらっている時にイってしまったりすることだ。普段はあまり目にすることがないものだが、ゴムの溜りに白い液体が充満する瞬間を二人で目撃することになるのだ。これなどは、性的なコミュニケーション中ではなく、ゴム装着というあくまで事務的な作業中の出来事なのだから気まずさ倍増なのである。

多分に精神的な影響を受けているのであろう。登楼直前にセルフしたとしても、即尺時は同じ結果となるからだ。ちなみに二発目以降は大丈夫だから、「即尺時超危険」と脳内に擦り込まれてしまったのだろう。

そのため、基本的には即尺時に口内発射をお願いした上で、「超うまいから超気持ちよくて超早かった」などと超が超つく感想を述べた上で、無かったことにして二回戦に持ち込むというパターンが理想形であった。

それが、最近オキニができて、何度も裏を返しているうちに、新たなパターンを確立することができたのだ。「クンニ雪崩込み」である。

それまでは、基本的にクンニは行っていなかった。衛生的な面が大きいが、アソコの形態からして、それは眺めたり舐めたりするものではなく、あくまで先端を挿入するものであったのだ。

しかしオキニができてそれが変わった。ソープでありながら、愛おしくてたまらないのである。ソープではあくまで自分は客だからいかにサービスを引き出すかということばかり考えていた。基本的に受け身の姿勢。しかし今は違う。何とかしてイカせたいのだ。それでどうすればよいのか考えた。クンニである。即尺を要求するのではなく、キスからの脱がせながらクンニにシフトしていく。クンニをしながら自分の服も脱いでいく。もちろんアソコはギンギンである。結構時間をかける。まったく苦痛でないのだ。そして一通りのアエギを頂いた後、そろそろ・・・ということでゴムを受領、これも自分で装着した上で正常位で挿入という段取りである。今までは口内→発射という条件反射であったが、これがクンニ→挿入→発射であれば意外と長持ちするのに気付いた。しかもクンニを結構致した結果アエギを頂いているので、挿入が実際はわずか一分くらいの持続であっても、なんかいい雰囲気で発射に至ることができるのだ。

このスタイルを確立できてから、早漏は自分の弱点ではなく、まさに「贈り物」になった。早漏スタートダッシュを皮切りに二回戦、三回戦、さらには四回戦までイキきることができるからだ。

若い頃は早漏は加齢とともに緩和し改善に向かうものと思っていた。しかしながら全くもってその兆しがない。であるならばこの「贈り物」を武器としてイキの限界までイキきることが自分に課せられた使命であると胸に刻み、またオキニに予約お伺いのメールをする今日この頃なのである。