改めて、ネットでのやりとりについて

自民党杉田水脈議員のLGBTに対する差別的論調に対する反論がかしましい。

雑誌に載った「LGBTには生産性が無いのに支援の度が過ぎる」との主張に対してのリアクションである。概ね杉田議員のヘイト的な姿勢やあの論文を掲載した出版社に対しての批判となっている。

そんな中、乙武さんのTwitterが印象に残った。

 

乙武さん/7月24日

『『あなたはLGBTなので生産性がありません』『あなたは障害があるので生産性がありません』『あなたは高齢者なので生産性がありません』『あなたは能力が低いので生産性がありません』-国家にとってどれだけ有益かという観点から優劣がつけられる社会になれば、次に排除されるのは『私』かもしれない』

 

乙武さん/7月25日

『「私」とわざわざカギカッコをつけたのは、LGBTに限らず、次に国家から「生産性がない」と切り捨てられる可能性は誰にでもあるという意味なのに、文字通りの私=乙武だと受け取って、「乙武さんは生産性に溢れてるから大丈夫ですよw」とかどれだけ読解力が欠落しているのか。』

 

おそらく、7月24日のツイートに対して「乙武さんは生産性に溢れているから大丈夫ですよw」と障害があるけど子供がいるという意味での冷やかしのコメントがあったのであろう、それに対して乙武さんがかなりムカついたことが読み取れる。

これ要るか?

ブログやSNSにより、私も含め一般の人が広く公衆に意見を述べられるようになった。また著名人の意見に対して、一般人が(その著名人が認識するかどうかは別として)直接コメントできるようになった。

今回の一連のやり取りで、LGBTへの差別的な意見に対して、乙武さんが障害とリンクしてツイートした。ここまではいいだろう。

それに対して一般の人が、揶揄をする。それに対して乙武さんがわざわざ意図を説明する。かなりムカついていることが見て取れる。杉田議員ではなく、一般の人が読解力が無くアホだ、に切り替わっている。それがまたネットニュースになり拡散して、乙武さんをフォローしていない私までが知ることとなった。一般人による揶揄、これももしかしたら悪意や差別的な考え方がベースになっているかもしれない。また乙武さんの一般人に対する怒り。これらネガティブな気持ちにさせるやりとりは、ネット上至るところで見られるものだけど、改めて不要なものだと感じるのだ。

人が思うこと考えることは自由だ。たとえそれが悪意によるものでも。モラルとか法律により縛られるものではないし、普通は窺い知ることはできない。しかしながら、今は思ったり考えたりすることを気軽にネット上で表現できる。それは記録されネットニュースでさらに広く拡散されることもある。

テクノロジーの進歩に伴う、表現のデジタル化とその拡散を止めることはできないだろう。自分が傷つけられたり、不快な思いをしないように、あえて検索を止めたり、意識してネットから距離を置く時間を持つことが精神衛生上必要だ。